けやきのからだ。

AD/HD 手帳は二級。23さい

過去がわたしを殺すんだ。

わたしには、どうしてあんな選択をしたのだろうと思ってしまう過去がある。
悔いても悔いても、悔やみきれない過去がある。
未来の障害になってしまう過去がある。

「これから、過去がわたしを殺すんだ・・・!」
と、朝まで眠れないこともある。

これから何かを「しない選択」より、「出来ない!」と思い込んでしまうことの方が辛い。

どうしてあんな選択をしてしまったんだろう。
それは、ADHDの衝動のせい。
全部その衝動のせい。

未来は変えられるなんて、
過去は仕方ないなんて今、思えない。

悔いても悔いても、悔やみきれない思い出は、いつまでもわたしの心の中にあって、
自由な気持ちになることを邪魔してくる。

まるで、わたし自身が自由を拒んでいるように、わたしの過去は纏わりついてくる。

「仕方がない」なんて言って、突き放すのはやめて。
「未来は変えられる」なんて言って、自分だけ自由になっていくのはやめて。
「わたしは、幸せになれないのかなぁ・・・」なんて、お母さんに泣きながら電話したって、
「もう死んでやる」と叫んだって、なにも変わらない。

希望なんてただの、一時的な状況。
だけど希望に溢れた自分でいたくて、
希望に包まれている瞬間の心地良さを忘れられないから、
わたしはこれからも生きていくのだろう。

死にたいという言葉に、安心してほしい。

死にたいということは生きたいということだと、よく言われる。
死にたいということは本当は死にたくないんだと、よく言われる。

死にたいということは、本当に死にたいのに、
死にたいということは、本当に本当に死にたいのに。

今まで私は、「死にたい」とよく口にしてきた。
しかし、「本当は生きたい」、「本当は死にたくない」という気持ちで、今まで生きてきたわけではない。

本当は死にたくないという言葉は、死にたいという感情に対して、
あまりに否定的で、あまりに残酷で、あまりに先回りしすぎている。

「先回りしすぎている」というのは、死にたいという言葉の大半が、
「生きたい」という感情に基づいた言葉だからである。

その先回りは、感情に対して不必要なものである。
心の中で思っていればいいものである。
けれど、自分を守るために、「死にたい」という、ある種びっくりする言葉に対して、
「本当は生きたい」んだとか「本当は死にたくないんだ」と、つい言ってしまう。
死にたいという言葉に、弱気になってしまう。

死にたいということは、確かに大抵が、生きたいということだから、死にたくないということだから、どうか、
どうか安心してほしい。