けやきのからだ。

AD/HD 手帳は二級。23さい

生きていくことに言葉をつけても。

わたしが生きていることに、はじめて言葉をつけたのは、
多分周りにいた大人だ。

小学生の時のわたしが、
「人の役に立てる仕事がしたい」
と言ったのは担任の先生や両親が、人の役に立ちなさいと毎日のように言っていたからだった。

「頑張って生きる」、とか、「人生は楽しい」とか、「辛いことがあっても乗り越えることが大切だよ」とか、「自殺はいけない」とか、「努力は報われる」とか、そういうことを成長の過程で言われてきた。
今は、「努力は報われないこともある」とか、「人生は苦しいものだ」、とか、「そこまで頑張ったって意味がない」とか、
そういう風な言葉も言われるようになった。

生きていることに言葉をつけられたと子供のときに思ったことは、
単なる小さな子供に対する教育だった。

それに気づいたわたしは納得しながら傷ついた。

そう感じたのは幼いわたしに対する教育としての決まりきった言葉の影響なのだろうか。

わたしの人生の言葉の中には、「生きたい」も「死にたい」もある。
死ぬときにどんな言葉を残しても、なくなるのは、人生ではなく命だ。

生きていくことに言葉をつけても、それは「命の喪失」で瞬時に吹き飛ばされてしまう程のもので、意味や言葉はないに等しいものだという気がする。

人に嫉妬を抱く瞬間や、差別心などを抱く瞬間が人生にはあって、それらが心から消えることに、安心感を得ている。

自分の愚かさや汚さが消えることに何を感じることもなく、自分の生きた証を残したいと、作品や遺伝子を残すのは誰にでもある本能。

ただの本能だ。

生きていくことに言葉をつけても、ただ本能に支配されるだけだ。